ハンガリーの
歴史 
 

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  建国まで
  ハンガリー王国
時代
  三つに分かれた
時代
  オーストリア=
ハンガリー二重帝国
  二つの世界大戦
  ハンガリー人民
共和国と動乱
  社会主義政権
  現在のハンガリー
建国まで 

カルパチア盆地に行進
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ソース:http://www.szeretlekmagyarorszag.hu/lathatod-munkacsy-oriaskepet/
現在のハンガリーの地域は、1世紀にはローマ帝国が属州パンノニアを置いた。4世紀にローマ帝国が衰退し、ゲルマン人の移動が始まると、この地にゴート族が到来した。その後、ドナウ川中流の良質の平原に着目して、5世紀にフン族、6世紀にアヴァール人などテュルク系と見られる遊牧民の勢力がそれぞれ到来し定着した。

9世紀になるとウラル山脈の中南部周辺からウゴル系遊牧民であるマジャル人が黒海北岸~ロシア南部のヴォルガ川南岸付近の広大な草原地帯に到達した。その後、大首長(ジュラ)アールパードはバルカン半島を経由して、ハンガリー平野この地に移住してきた。アールパードはパンノニア平原を根拠とし、アールパード家の祖となり、ドイツ南東部のバイエルンなど東・中部ヨーロッパ各地を騎馬で蹂躙し、同時期の海のヴァイキングとともに怖れられた。

しかし、955年にアールパードの孫タクショニュはレッヒフェルトの戦いでオットー1世に敗れると、今までの部族の風習であるシャーマニズムによる自然崇拝を放棄し、カトリックによるキリスト教に改宗して、パンノニア平原に統一王国建設を開始した。同時に現地のスラヴ族やラテン人など多くの民族と混血して、現地に同化した。
 
ハンガリー王国時代
1000年にタクショニュの孫であるアールパード家のイシュトヴァーン1世が本格的にキリスト教に改宗すると、ローマ教皇からハンガリー国王として聖別をうけ戴冠し、ヨーロッパ世界の一員となった。この頃がハンガリーの絶頂期であり、中欧の強国として君臨していた。この時代の領域は聖イシュトヴァーンの王冠の地と呼ばれ、以後ハンガリーの歴史観において重要な位置を占めた。このためハンガリー王となるものは聖イシュトヴァーンの王冠を頂く者であるという概念が生まれた。

1240年にはモンゴル帝国のバトゥによる侵略を受け、甚大な被害をうけた(モンゴルのポーランド侵攻)。この経験を経たことでハンガリー国王は防衛体制を整える必要に迫られ、貴族層に土地を与えて彼らの主導で堅固な城塞を築かせていった。同じく防衛上の観点からも城壁を持つ都市の発展が求められ、従来までの都市のほか、新たにドイツ人の入植を契機とした都市も形成・発展した

その後1301年にアールパート朝が断絶すると選挙王制となり、1308年にナポリ王国のアンジュー家から王が出た(ハンガリー・アンジュー朝)。以後世襲王朝が続き、その間ハンガリー王だけでなくポーランド王も兼ねるようになったが1395年に断絶した。15世紀にはトランシルヴァニア貴族のニャディ家のマーチャーシュ1世の頃に強盛を極めた。
 
ハンガリーの元の地図
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ソース:http://www.magyarorszag-szep.hu/
三つに分かれた時代
 
三つに分かれた国
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ソース:http://tortenelemklub.com/
14世紀になると東方からオスマン帝国が興隆し、コソボの戦い以後バルカン半島に進出してきた。神聖ローマ皇帝でハンガリー王のジキスムントは連合十字軍を組織し、対抗したが1396年ニコポリスの戦いで敗北した。ハンガリーはオスマン帝国の脅威にさらされ、1526年のモハーチの戦いでは国王ラヨシュ2世が戦死する大敗を喫し、ヤギェウォ王家は断絶した。王冠は姻戚関係にあったオーストリア大公のハプスブルク家が継承することになった。

ハンガリーを征服したオスマン帝国のスレイマン1世はハンガリーを直轄地(オスマン帝国領ハンガリー)とし、トランシルヴァニアを保護領とした(トランシルヴァニア公国)。ハプスブルク家はハンガリーの北部と西部を支配し(王領ハンガリー)、東にトランシルヴァニア公国があった、残ったエリアはトルコを支配し、ハンガリーは150年近くにわたり分割支配された。

1683年の第二次ウィーン包囲以後の大トルコ戦争を経て1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約で、ハンガリーのほぼ全域がハプスブルク家のものとなった。これに反発したハンガリー人貴族ラーコーツィ・フェレンツ2世との間で民族解放運動が戦われることとなったが、1711年には鎮圧された。 
オーストリア=ハンガリー二重帝国
19世紀が中盤にさしかかるとハプスブルク帝国のヨーロッパでの影響力は相対的に低下し始めた。

1848年の2月革命でオーストリアが混乱すると、3月にコシュート・ラヨシュはペシュトで武装蜂起し(ペシュト蜂起)、自治政府を設立した。しかし国内の安定を取り戻したオーストリア軍に鎮圧されると、コシュートはハンガリーの独立を宣言して再びブダペストを奪回した。しかしオーストリア軍とロシア軍の前に敗れ、独立は失敗した(ハンガリー革命)。

しかし1866年にプロイセン王国との普墺戦争に敗北してドイツでの覇権を喪失するなど弱体化した帝国内部では、ハンガリー人や他の被支配民族の独立運動はなおも活発化した。

これを危惧したフランツ・ヨーゼフ1世はハンガリー人とともに帝国の支配の強化を図り、1867年にハンガリー王国の自治権拡大を認めた。そして自らがオーストリア皇帝とハンガリー国王を兼ねることで、オーストリア=ハンガリー帝国が成立した。これは帝国を維持したいオーストリア政府と、自治権の一層の強化を求めるハンガリー貴族の両者の利害が一致してできた融和と妥協の産物で、「アウスグライヒ」(和協)と呼ばれる。しかしハンガリー王国内には独自の内閣や議会も置かれ、帝国に対するハンガリーの影響力は強まった。

19世紀末のハンガリーでは資本主義が勃興し、民族主義が高揚した。首都ブダペストは地下鉄が整備されるなどヨーロッパ有数の近代都市としての装いを調え、繁栄した。 
 
ハンガリー革命の始まり
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ソース:http://www.origo.hu/tudomany/20120314-nem-engedunk-a-negyvennyolcbol-1848-marciusi-forradalom-fiatalok-petofi-kossuth.html
二つの世界大戦
 
トリアノン条約の影響
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ソース:http://lib.debrecenizenede.hu/junius-4-trianon-emleknapja-a-trianoni-bekediktatum-megkotesenek-napja/
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、オーストリア=ハンガリー帝国は中央同盟の一翼を担い戦ったが、1918年に敗北した。11月16日にカーロイ・ミハーイの主導によりハンガリー民主共和国が二重帝国から独立した。しかし共和国の軍事力は弱体であり、東部のトランシルヴァニアをルーマニア王国に、北部ハンガリー(スロバキア・カルパティア・ルテニア)をチェコスロバキアに占領された。

1920年3月1日、ホルティはハンガリー王国の成立を宣言した。しかし国王候補が定まらなかったため、ホルティが摂政として支配を行うことになった。6月4日、ハンガリーの領域を確定するため、パリにおいてトリアノン条約が結ばれた。この条約によりハンガリーは総面積の67%を失ってしまった。

ホルティはナチス・ドイツと協調し、ドイツの軍事力を背景にミュンヘン協定やウィーン裁定で北部ハンガリーの一部と北トランシルヴァニアを回復することに成功した。このため1941年に、ドイツによるユーゴスラビア侵攻が発生すると侵攻に参加した。独ソ戦においてもドイツ側につき、第二次世界大戦を枢軸国の一員として戦うことになった。

しかし、ドイツの敗北が兆すとホルティは単独講和に乗り出したため、1944年10月15日にドイツの支援を受けた矢十字党のクーデターが発生した(パンツァーファウスト作戦)。矢十字党のサーラシ・フェレンツが首相となり、ホルティは摂政を退位し亡命した。同時期ソ連軍はすでに国内に侵入しており、翌1945年2月13日にはブダペストは陥落した(ブダペストの戦い)。ソ連軍はハンガリーで徹底的な暴虐行為をした。
 
ハンガリー人民共和国と動乱
第二次世界大戦後の1946年に王制は廃止され、ハンガリー共和国(第二共和国)が成立した。しかしハンガリーはスターリン指導のソビエト連邦の影響下に置かれ、共産主義政党ハンガリー勤労者党の影響が拡大した。1949年には社会主義国家ハンガリー人民共和国が成立し、東側諸国に組み込まれた一党独裁制国家となった。勤労者党の書記長ラーコシ・マーチャーシュは忠実なスターリン主義者であり、反対勢力の粛清を行った。

しかし1956年にソ連のフルシチョフが「スターリン批判」を行い非スターリン化を始めると、ラーコシは失脚した。しかし後継のゲレー・エルネーもスターリン主義者であったため、反発した市民は大規模なデモを起こした。これを押さえきれなかった政府は、国民に人気のあった前首相ナジ・イムレを首相に就任させ事態の収拾を図った。しかし事態を重く見たソ連は介入を決定し、ソビエト連邦軍とワルシャワ条約機構軍がハンガリーに侵攻した。この結果、市民およそ約2万人が殺害され、ナジを始めとした多数の幹部が処刑された。また20万人以上の難民がハンガリーから逃れた。 

1956年の革命のとき 
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ソース:http://www.fotoklikk.hu/esemeny/eloadas/szentpetery-tibor-emlekules
社会主義政権  

カーダール・ヤーノシュ 
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ソース:http://nepszava.hu/cikk/1053509-bod-peter-a-kadar-korszak-szemlelete-uralkodik
動乱によりハンガリー勤労者党が崩壊したため、ハンガリー社会主義労働者党が新たに樹立された。新首相となったカーダール・ヤーノシュはナジの路線を断ち切り、ソ連との友好を協調することで動乱後の混乱をおさめた。

1961年、カーダールは融和的新路線を打ち出し穏健な政治路線を踏み出した。1968年には新経済メカニズムと称する経済改革が行われ、市場経済が導入された。これ以降のハンガリーの政治体制はグヤーシュ・コミュニズムと呼ばれている。ハンガリーは他の東欧諸国に比べて経済状態は良好であったが、カーダール政権が長く続くにつれ、徐々に停滞していった。

1980年代、ソ連のゴルバチョフ書記長がペレストロイカを推進すると、社会主義労働者党政権は改革派が主導するようになり、急速な民主化を進めた(ハンガリー民主化運動)。憲法改正が行われ、社会主義労働者党は一党独裁制を放棄して西欧流の社会民主主義を志向するハンガリー社会党へ改組し、国名も「ハンガリー共和国」に変更された。

1989年にはハンガリーはオーストリアとの間の「鉄のカーテン」を撤去し、いわゆる「汎ヨーロッパ・ピクニック事件」を起こした。これらは他の東欧の共産主義諸国にも影響を与え、東欧革命を急速に促した。
 
現在のハンガリー
1990年には複数政党による選挙が行われ、民主フォーラムが第1党となり社会主義政権に終止符が打たれたが、政権運営の行き詰まりから1994年社会党が政権に復帰した。1997年から経済が好転し、「旧東欧の優等生」と呼ばれるようになった。

1996年には経済協力開発機構、1999年に北大西洋条約機構、2004年にヨーロッパ連合に加盟した。
 

国会議事堂
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ソース:http://www.sunshinefm.hu